ぶどうの歴史は現存する資料がないのではっきりわからなく諸説あるが次のような説がある。
● 江戸中期(寛永年間ともいわれている)月山、羽黒山、湯殿山の三山に詣でる諸国の行者が、ぶどうを持ってきたという説
● 昔、川樋地区は金の鉱山で栄え、諸国より鉱夫、山師(鉱山を探す人々)が出入りし、一時は娼妓も200名を越す賑わいとなり、人口も一万を越したといわれるほど繁盛した。その頃(上杉景勝の時代)山梨県も金鉱山で栄え、交流があったので、その折、鉱山師が苗木を持参したものであるという説。この説に従えば、川樋地区に最初に甲州種が入ってきたと思われる。
● 寛永5,6年ごろ、安部右馬助により開拓されたこの地方で、最も陽(日)当たりのよいといわれる赤湯金沢地区、松沢地区などに甲州種が植えられたといわれれている。
● 金沢の新関角次氏の庭に享保11年に植えられたといわれる葡萄の樹があったが、260年もの昔となるから、それ以前に葡萄が入っていたとも考えられる。
南陽市史 下巻より
明治20年代、赤湯の酒井弥惣、神保米吉等が甲州種の外、コンコードを植え、酒井弥惣はそれらを原料として葡萄酒の醸造を始めた。
大正年間の記録によれば、当時葡萄園は密植栽培で、反当り330貫、売り上げ代金160円となった。当時は米一俵6円程度、反当収量が7俵位であったから、一反当たり42円位である。それと比較すると米の4倍くらいの高収入となった。
酒井弥惣赤湯町長は町有地の白竜湖に向かった南斜面の十分一山を全山開放して一般に貸し付け、葡萄園としての開墾を進めた。大正7年に十分一山に一段道路、昭和6年に二段道路、昭和10年に三段道路が完成し、十分一山は全山葡萄で春夏秋冬と見事な景観を見せている。
昭和8年ごろになると、甲州種はわずか20パーセントに過ぎず、デラウエアが80パーセントを越す勢いとなっている。
昭和35年、葡萄の種をなくすジベリレリン処理法が開発された。
昭和38年、南陽市農協が発足、晩腐対策と早期出荷を目的として、ハウス栽培も取り入れられ始めた。
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